2011年12月27日火曜日

重森三玲とファッションの軽さについて


 今年の総括はまだ若干早いですが、最近更新しておらず、そろそろ誰も読まなくなったかと思いますのでまた更新してみようかと。
 どうも、皆さんこんばんは。山中です。みなさーん、今日もつぶやいてますかー?笑
 更新していない間、当欄について、「長いから最後まで読めない」、「長いのはいいけど、改行や行間を工夫した方がいい」などと言ったご意見、ご感想を頂きました。ただ、まあ内容については大した反応もないし全部無視してやろうと固く、固く決意した次第です。
 そんなことはさておき、最近あった事といえば、約2年弱お世話になった場所を煙突から出入りするサンタさんのごとく、誰にも気づかれることなくこっそり脱出し、その感傷に浸る間もなくクリスマス突入、そのクリスマスも開けてみたら近年まれにみる上出来なクリスマスを過ごし、気づけば今年も残りわずかな感じです。
 出会いがあれば別れがあるのは世の常と申しますか、もはやクリシェですが、出会いも良いですが、別れも悪くないですね。まあ無常観てやつです。別れがある事で、色々な事に気づかされますから、長い目で見たら別れもまたよしと言ったところでしょうか。あんまりこういうこと書くとロマンチストだと思われてもしゃくだし、粋じゃないのでこの辺でやめておきますが、今回は、最近観た『重森三玲展』について少々書きます。
 この展示は青山のワタリウム美術館で開催されているもので、重森三玲の手がけた庭園が会場内に再現されていたり、会場音楽を細野晴臣が手がけていたりとなかなか期待値が高めだったのですが、展示内容は期待通りというかまあ普通に良かった感じですが、重森三玲の作り出す日本庭園の美しさや潔さ、革新性など、久しぶりに、何かを観てその美しさにため息しか出ないような感覚を経験しました。現在言われているようなジャパンクールも悪くはないですが(大体はダメだけど)、そんな華奢で表面的なものを一瞬で吹き飛ばし、これぞ日本的美意識だと感じたわけです。
 重森三玲は、華道、書道、茶道などに精通し、独自の美意識で日本庭園を創作した人物で、イサム ノグチなどとも親交があった人物です。
 今回感じたのは、作品の素晴らしさもさることながら、彼の作品や言葉から感じる事が出来る思想、哲学の素晴らしさです。行って頂ければ分かるのであまり具体的には書きませんが、私たちはファッションを表現手段としていますので、ファッションとの関係について書きます。
 私はファッションには、本質的に、良くも悪くも「軽さ」といものが存在していると思っています。この「軽さ」ゆえにいわゆる時代を映す鏡にもなり得ますし、表現手段としては文字通り軽んじられる要因にもなっているのではないかと思います。表現手段として軽んじられているというのは、音楽やアートと同列で語られることがほとんどない、学問として体系的な教育がなされていないということです。アートとファッション、音楽とファッションの関係性については興味深い考察もありますが、アート、音楽のように単体での批評は最近こそ機運が高まっているとはいえ、それもこれまでほとんど行われてこなかったいうことの裏返しでしょう。特に日本においてはその傾向が強いように感じており、日本の国立美術大学つまり東京芸大にはファッションを専攻する学部学科が存在しないことは、その最たる例といえるでしょう。
 人にとって一番身近で手軽な自己表現手段であり、それ故の存在としての軽さは、ファッションの背負った宿命です。これは他の分野とは分かち合う事が出来ない問題かもしれません。
 しかし、だからこそ私は、ファッションに携わるものとして、重森三玲が日本庭園や茶室に対して行ったように、徹底的且つ真摯にそうした問題と向き合い、確固たる哲学と思想を持って表現していかなければならないのだと思います。そして、そのようにやってきた者だけが最後まで残るのだと信じています。
 念のため言っておきますが、最後は気合いだとか、思いが強ければ必ず伝わるなどと言った陳腐な精神論とかじゃないからね?笑
 今回鑑賞した、重森三玲の創作した日本庭園には、彼の全てがあった。彼の言葉にもあるように、そこに立てられていた石は重森三玲自身だと感じることが出来るのです。
 『感じる服 考える服〜』より数段おすすめですので、よかったら是非。私は、彼の著作を、餞別に頂いた菊地成孔・大谷能生著の『憂鬱と官能〜』と共に正月休みの課題図書にしようと思います。
 今回はそんなに長くなかったからみんな最後まで読めたかな〜?笑
それでは、最後までお付き合いありがとうございました。また次回の更新で。(年内にもう一回くらい更新する予定です。)

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