2012年8月29日水曜日


前回の続きのような感じになってしまいますが、最近はよくこんなことを考えております。
 ファッションに限らず、現在モノが売れないと言われて久しく、それが常態となりつつあるようです。
 至る所で言及されていることで、ファッションに限ったことではありませんが、日本人は目先の利益ばかりに気を取られ、中・長期的な視点が欠けてしまっているように感じます。
 大変な時期だとは思いますが、逆に考えると、全世界的に考えると今まで大変じゃなかった時期なんて無かったと思うということを僕が好きなジャズミュージシャンが言っていましたが、これは本当にそうなんですよね。さらに言うと、困難さがないと新しい物は生まれてこないとさえ僕は考えます。こんな時代だから革新的なものが生まれるとも。
 これに少し関連していることで、以前にこのブログで少し書いたことがあることですが、ファッションの重さと軽さということについて、change fashionの中で、蘆田裕史というKCIのキュレーターの方がブログに書いていました。

一枚の絵画、一本の映画、一篇の小説などと比べると、一枚の服のもつ情報量はきわめて少ないです。たとえば映画であればプロットがあり、役者がいて、映像が次々に流れ、音楽がつけられ、と人間の感覚では認識しきれないほどの情報が詰まっています。映画について語る場合、あらすじを述べるだけでも10分や20分かけられます。一方で、衣服の場合は色、形──しかもほとんど定型がある──、生地の質感など、きわめて少量の要素しかありません。



このように、衣服はただでさえ情報量が少ないのに、近年隆盛しているファストファッションなどは、デザイナーの思想や、制作における職人的な手仕事など、さらに色々なものをそぎ落としています。これらはその意味で「軽い」服だといえます。

(これはファストファッションに限らず、「制作のコンセプトやテーマはありません。自分がかわいいと思うものを作っています」と言ってしまうようなデザイナーなどもそうです。)



一方で、衣服にできるだけ多くの情報を付与するようなデザイナーが現われています。その付与の仕方は、ASEEDONCLOUDのように(狭義の)物語を作ったり、Aski Kataskiのようにわざわざ蚤の市などで古い布を集めてきたりと様々です。軽い方へ軽い方へと向かう潮流に抗うかのように──とはいえ、本人たちにはそうした反骨精神のようなものがあるわけではありませんが──、彼等は服そのものに、あるいは服の背後にさまざまな要素──これを物語と僕は呼んでいるのですが──を加えているのです。

言い換えれば「重い」服を作っていること、それが選出のひとつのポイントです。
 
分かりやすいですね〜。笑 さすが大学講師!多分僕が書いている事と言いたい事はそんなに大きくは変わらないはずなのですが。以前も書いたように僕は衣服を中心とするいわゆるファッションの本質は軽さにあると考えています。それはもちろん、参照部分で蘆田さんが言及されていることも含みますが、もう少し本質的な意味においてです。
 そして、引用文中では軽さが消極的に記されているように感じますが、その軽さこそがファッションをファッション足らしめているのも事実ではないでしょうか。
 比較対象とされている、絵画、映画や小説に比べ圧倒的に人との物理的な距離が近く、興味の有無は別として、日常生活で必要不可欠な側面を有してる点において必然的に“軽く”ならざるを得ないとも言えます。だから、ファッションはその存在の内に耐え難き軽さを内包していると以前にも言及したのです。
 蘆田さんのおっしゃる「重さ」と「軽さ」の言説もこのことを前提に成立していると思うのですが。いかがでしょう。
 本来「軽い」ものにどのように意味や思想、哲学、また物語によって重さを与える事が出来るかどうかがデザイナーの仕事の一つだと思います。
“たかが服、されど服”鷲田清一氏のヤマモトヨウジ論の本タイトルですが、良い言葉ですな〜。

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